江戸幕府が開かれて間もない慶安(けいあん)元(1648)年には、早くもゴミの不法投棄に対する処罰や、町内会でのドブさらいを奨励(しょうれい)するお触れが出されていたのだそうです。
14年後の寛文(かんぶん)2年には、今でいうゴミの定期収集が始まっているのだとか。
これは、日本橋通りより北は毎月二の日、
南は三の日にゴミ取り船を差し向けて各町内のごみを収集したもので、元禄(げんろく)10(1697)年には、清掃局の前身ともいえる芥改役(あくたあらためやく)という役目ができています。
船で集められたゴミは、東京湾の永代浦などに捨てていたようだとのことです。
しかし、江戸の人口は増える一方で、増え続けるゴミに頭を悩ませた幕府は、ついに享保(きょうほう)年間(1716~1735年)に、深川の越中島に塵芥(じんかい)捨て場を定めたのだそうです。