三種の神器とは、「皇位の御しるし」として継承されてきたもので、鏡と剣、そして勾玉(まがたま)です。
三種の神器の起源が神話にあるため、実在を疑う人もいるのですが、第二次世界大戦の敗戦直前に、昭和天皇が皇太子明仁親王にあてた手紙の中に「戦争をつづければ 三種の神器を守ることも出来ず」とあるそうです。
そして、昭和最後の日に皇居で執り行われた明仁の即位式「剣璽(けんじ)等承継の儀」でも、天皇の印(御璽(ぎょじ)、日本国の印(国璽(こくじ)とともに、剣と勾玉が継承されています。
三種の神器は、皇祖神である天照大御神が、天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)を葦原の中つ国に降ろすときに下賜(かし)したものです。
その際に、葦原の中つ国は自分の子孫が君主となるべき国であり、神器を皇位の御璽とせよと神勅を下しているのです。
以来、この「三種の神器」は、皇位の証として、長く受け継がれてきました。
八咫鏡
三種の神器の一つは、八咫鏡(やたのかがみ)です。
古代から鏡には不思議な力があり、そこに映ったものの魂を宿すと考えられていました。
八咫鏡は、天照大御神が天の岩戸にこもった際、天照大御神を誘い出すために作られたものです。
岩屋から天照大御神が現れたと、鏡にもその姿が映ったとされ、天照大御神の魂を宿しているとされています。
『日本書記』によると、天照大御神は、邇邇芸命に鏡を下賜する際、「(この鏡を見るときh)われ(天照大御神)を見るがごとくせよ」と伝えたころから、八咫鏡が天照大御神の分身として神聖視されています。
神話では、伊斯許理度完命(いしこりどめのみこと)が天の安河(やすかわ)上流の天の堅石(かたしは)を取り、天の香久山の金を取って、冶工(やこう)につくらせたものだと伝えられています。
「咫(やた)」とは、長さの単位で、1咫は、18.4㎝です。
八咫鏡は円周または直径が147㎝あることになります。
当初は大きな鏡をたとえた呼称と考えられていましたが、福岡県の平原(ひらばる)遺跡から直径46.5㎝の大鏡が発見されたことから、八咫鏡の実在性が真実味を帯びてきました。
『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』などの記録では、その大きさは直径約49㎝とされています。
この八咫鏡は、第11代垂仁(すいじん)天皇の時代に伊勢神宮に移され、宮中にはその御写が保管されているといいます。
『日本書記』では、天照大御神が「床と同じく、殿(おおとの)をひとつにして」と言っています。
道教の思想では、鏡は宇宙の最高神の権力を象徴するのですが、八咫鏡はそれと関係があるともいわれています。
草薙の剣
草薙の剣は、須佐之男命(すさのおのみこと)が八俣大蛇(やまたのおろち)を退治した際、その尾から取り出されたものです。
須佐之男命が携していた名剣を刃こぼれさせたというほと鍛え抜かれた剣で、後に天照大御神に献上されました。
この草薙の剣も八咫鏡とともに伊勢神宮に祀られていましたが、第12代景行(けいこう)天皇の皇子である倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の際に帯刀したところ、
焼津(やいづ)(静岡県)の地で敵の奇襲にあったとき、腰からひとりでに飛び出し、周囲の草を薙(な)ぎはらったといいます。
このとき、もともとは天叢雲剣と呼ばれていたのを、草薙の剣とあらためたといわれています。
その後、尾張国造(おわりのくにのみやつこ)の娘、美夜受比売(みやずひめ)を妃とした倭建命は、剣を妃のもとに残したまま近江国伊吹山(おうみのくにいぶきやま)の賊の平定に向かいますが、その山中で毒気に触れたことにより亡くなってしまいます。
死の直前、倭建命は、剣の行く末を想い、「乙女の床のべに わがおきし剣のたちその太刀はや」と歌を詠んだといわれています。
倭建命が亡くなった後、美夜受比売は、託されたその剣を、かねてから尾張一族の祭場であった「熱田」に、ご神体として祀ったと伝えられています。
八尺瓊勾玉
三種の神器の3つ目は、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)です。
勾玉とは、古墳時代の遺物によく見られる湾曲した玉のことで、日本独特の形状をしたものです。
その由来は、動物の牙、三日月を模したなどといわれる一方で、人間の心臓、すなわち霊魂を象徴するものだとも考えられています。
現在も宮中で、璽(しるし)の御筥(みはこ)という箱に収められているとされる勾玉ですが、その箱を開けることは、たとえ天皇であっても許されていないそうです。
10世紀に冷泉(れいぜい)天皇が開けようとしたことがあったそうですが、白雲のようなものが立ち昇ったため、畏怖してやめたという記録があるそうです。
したがって、八尺瓊勾玉は、誰も見たことがないのです。
「三種の神器」は、一般人である我々はもちろん、天皇でさえ容易に見ることは許されていないのです。