夏の風物詩と言えば、花火蚊取り線香ですね。
細菌は、電子蚊取り器が一般的で、火災の危険もあるので、
蚊取り線香を使っている人は少ないと思いますが。
1887年(明治10年)頃に、日本に蚊取り線香の原料である除虫菊が輸入されました。
除虫菊の原産地は地中海沿岸や中央アジアなどです。
当時、除虫菊はよく乾燥させて粉末状にしたものが、ノミ取り粉として広く使われていました。
その粉末をおがくずに混ぜたりして火にくべると、煙に触れた蚊は落ちて死ぬのです。
初めは、除虫菊はこのような使われ方をしていました。
はじめて蚊取り線香をつくり、商品化したのは、「金鳥」の初代社長・上山英一郎氏です。
ちなみに、「金鳥」は社名ではなく、蚊取り線香の登録商品名です。
社名は、「大日本除虫菊株式会社」といいます。
登録商標が「金鳥」なのはどうして?
司馬遷によって編纂された中国史上初の歴史書「史記」のなかの「蘇秦伝」に、
中国戦国時代の遊説家・蘇秦は、韓、魏、趙、燕、楚、斉の王たちに同盟を結び、
秦に対抗すべきであると説き、
「それぞれ小国であっても一国の王としての権威を保つべきだ。秦に屈服するな」
ということを伝えるために、
「鶏口と為るも牛後と為る勿れ」という言葉を引用したのだそうです。
つまり、秦に屈して牛の尻尾のように生きるよりも、
小とは言え、鶏の頭(カシラ)になるべきであると、
各国の王を説き、合従策を完成しました。
この一説と信条としていた上山英一郎は、
明治43年(1910年)「金鳥」の商標を登録したのだそうです。
上山英一郎は、除虫菊が日本の風土に適していることに着目し、
和歌山県や広島県、香川県などの瀬戸内地方をはじめ、
北海道など日本各地で除虫菊の栽培を奨励しました。
そのため、日本の除虫菊の栽培加工は大きく発展を遂げて、
第二次世界大戦前には世界の生産量の7割を占めていました。
上山英一郎は、さらに粉末で使っていた除虫菊をもっと使いやすくするため、
粉末を練って仏壇の線香のようにして販売しました。
粉末を火にくべて使うよりも室内で使いやすくなった棒状蚊取り線香は、「金鳥香」として販売され、よく売れたそうです。
しかし、短時間で燃え尽きてしまうという欠点もありました。
長く蚊取りをするためには、線香に次々と火をつけていかなければなりません。
上山英一郎が棒状の蚊取り線香の燃焼時間を長くできない悩みを妻に相談したところ、
妻は、「渦巻き形にすればいいんじゃない?」というアイデアを出したのだそうです。
なんでも、とぐろを巻いている蛇をみたのがきっかけだという話もあります。
これを境に、1902年(明治35年)に渦巻きの形をした蚊取り線香が誕生したのです。
渦巻き形の蚊取り線香は、蚊に抵抗性が生じにくいうえ、安全性が棒状蚊取り線香に比べて安全性が高いこと、燃えている最中には一定の有効成分が空気中に放出され、蚊取りの効果が持続すること。
開放的な家屋にも適していることから、売り上げを伸ばしていきました。
しかし、1963年(昭和38年)に電気蚊取り器が登場してから、
渦巻き形の蚊取り線香の需要は徐々に減少してきました。
1980年(昭和55年)に、電気蚊取り器の販売額が、蚊取り線香を抜いています。
また、蚊取り線香は、除虫菊を原料にしていますが、
電気蚊取り器などは、ピレスロイドという化学物質を使っているため、
除虫菊の栽培も激減していったのです。
でも、蚊取り線香の煙にピンセットでつかんだ蚊をくぐらせると、
すぐに死ぬので、効果はてきめんなんですよね。