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元寇で神風は吹かなかったって本当?

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13世紀後半、中国大陸を支配していた「元」帝国が日本侵略を企て、当時の中央政府であった鎌倉幕府が北九州でこれを撃退したのが、「元寇」です。

文永11(1274)年10月の戦いを「文永の役」、

弘安4(1281)年7月の戦いを「弘安の役」といいます。

戦争は、皇帝フビライ・ハン(モンゴル帝国創始者チンギス・ハンの孫)が朝鮮半島の国家「高麗」を服属させたのち、日本に朝貢貿易(属国となったうえで貿易を行うこと)を求めたところ、その時の最高権力者であった幕府執権・北条時宗が頑として要求を突っぱねたことで起りました。

元帝国は高麗王朝と連合し、大艦隊を編成して日本に攻めてきたのです。

軍勢の数は文永の役が3万、弘安の役が14万でした。

武士たちは、初めて遭遇する火薬・毒矢・集団戦術などに悪戦苦闘しながらも、何とか元軍の撃退に成功したのです。

今から30年くらい前までは、日本軍が元軍を撃退できた理由として、「停泊していた元軍軍籍が大暴風雨に襲われて大損害を被り撃退につながった」と言われていました。

この大暴風雨を「神風」というと、私もそのように習った記憶があります。

しかし、『八幡愚童訓』には文永の役の様子として、「夜も明ぬれば、廿一日なり、あしたに松原を見れば、さばかり屯せし敵もをらず、海のおもてを見渡すに、きのふの夕まで所せきし賊船一隻もなし」と記されています。

ここには、大暴風雨についての言及はないのです。

元軍艦隊は、夜の間に忽然と姿を消してしまったのです。

文永の役で元軍艦隊が姿を消した理由については、元の歴史書である『元史』の「日本伝」では、「冬十月、遠征軍は日本に侵攻して日本軍を打ち破った。しかし、官軍も統率を失い、また矢もつき、そのあたりを略奪し、捕虜を得ただけで帰還した」と記されています。

一方高麗の歴史書である『高麗史』には、「高麗軍司令官・金方慶(キムバンギョン)が戦闘の続行を主張すると、全軍を指揮する元の忽敦(クドゥン)は「将兵の疲労はピークに達している。日本側の兵力も増強されるいっぽうであり、戦いを継続するのは得策ではない」と答えた。そうしたなか副将の劉復亨(りゅうふくこう)が流れ矢に当たって負傷した。忽敦は小舟に乗り込み、海上へと引き上げた」と記されています。

元寇は、神風が吹いたから引き上げたのではなく、元側と高麗側の意見の相違や、兵士の疲労、副将の負傷などの要因が重なって、元軍艦隊は撤退したのです。

そして、日本から帰る航海の途中で、暴風雨に襲われたのです。

『高麗史』には、「会々(たまたま)、夜、大いに風雨す」と記されています。

日本側は11月にこれを知ったようです。

続く弘安の役では、日本軍との交戦の最中に大暴風雨に襲われました。

元軍艦隊の多くが沈没し、溺死する将兵も続出しました。

『高麗史』には、「屍は潮汐にしたがって浦に入り、浦これがために塞がり践(ふ)み行くをえたり」と記されています。

西北九州の浦々に死骸で塞がるほど横たわっており、その上を歩いていけるようほどだったというのです。

この暴風雨がどうして「神風」になったのでしょうか。

「敵国調伏(ちょうふく)」を祈願していた公家や宗教関係者たちが、「自分たちの願いが通じ、神が風を吹かせて敵を追い払った」と真剣に思い込んだことが大きな理由だそうです。

文永の役の翌年には、すでに、このような思い込みがあり、建治元(1275)年に書かれた『薩摩日記』の中に、「神風が吹き荒れて、敵の多くが命を失った。これは霊神の征伐であり、観世音菩薩の加護によるものだ」と記されています。

実際は、元軍艦隊は、帰り道に暴風雨に遭ったんですけどね。

この「神風」を恐れて、それから元軍は日本に攻撃しなくなったと思い込んでいますね。

実は、フビライ・ハンは2度の失敗にも懲りずに3次4次と矢継ぎ早に日本侵攻計画を立てていたのです。

しかし、3次侵攻の準備の最中、暴風雨ではなく、元の占領下にあった現在のベトナムで反乱が起こり、兵力を鎮圧に向ける必要に迫られてしまったのです。

4度目の計画では、戦争に駆り出されるのを嫌がる人々の反乱を起こして日本侵攻を断念。

2度の頓挫により、フビライは日本侵攻を諦めたのです。

「神風」のおかげじゃなかったんですね。

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