日記

うつ病になった時の話

私が過去にうつ病になった時の話です。

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私は、大学を卒業してすぐの昭和57年4月に、

生活指導員として養護老人ホームに就職しました。

この養護老人ホームは公立で、

荘長、事務長、主任生活指導員、主任寮母、看護師は、市町からの派遣職員でした。

私が就職して、1年で、事務長、主任生活指導員変わりました。

その後、3年間は順調に経過しました。

生活指導員2人のはずが

また、主任生活指導員が変わった時のことです。

この主任生活指導員は、市からの派遣だったのですが、

職場に出勤しません。

奥さんに電話をしても、「朝、家を出て出勤しましたけど。」だけ。

しかも、この奥さん、市立病院の婦長なので、上からの言い方です。

たまに、出勤しらた、飲酒していることもありました。

しかも、「私は、派遣先でなにもしなくていいといわれて来た。」とのこと。

迷惑な話です。

しかたがないので、2人分の生活指導員の仕事をしなければなりませんでした。

しかし、2人分の仕事を完全に出来る訳がありません。

少し、完全でない部分がありました。

 

施設建替え後の職員体制

私が働いている施設は、平成3年、4年の2年かけて、全面改築をしました。

平成4年4月から、職員体制が変わりました。

寮母だった人が、主任生活指導員になり、私の上司になりました。

この上司、はっきりいって仕事が嫌いです。

しかし、理屈は言います。

 

仕事が進まない

以前は、主任寮母と話をして、行事等をl進めていたのですが、

「今は、寮母は、○○をしているはずだから、相談に行ってはいけない・」

などと、私の行動を制限してきます。

寮母の業務を知り尽くしているので、太刀打ちができません。

 

そのため、仕事が進まなくなってしまいました。

 

仕事をしないで私の仕事を増やす上司

しかも、今まで寮母が手伝っていた仕事も、生活指導員の仕事だからと勝手に仕事をすることにして、

100人分の内3名だけの仕事をして、

あとの残りは、私にさせる状態でした。

 

頭の中が真っ白

仕事が進まない日々を過ごすうち

頭の中に白いモヤがかかったようになり、

言葉が出なくってしまいました。

会話は出来るのですが、

言いたいことの語彙が出てこないのです。

生活相談員の仕事として、敬老会などの行事で進行しねければならないのですが、

以前は、スラスラと言葉が出てきたのですが、

途中で頭の中が真っ白になり、言葉がでなくなってしまいました。

 

精神科を受診

荘長に病態を相談すると、

市立病院の精神科の医師の診察を受けることになりました。

その頃、うつ病の本を読んでおり、アメリカでは精神科受診は、知的な業務を行っていることのステータスだという記載があったので、

精神科は堂々と受診するつもりだったのですが、

荘長は市からの派遣職員で、当施設の前は市立病院の事務長だったので、

診察が終わってから、一人だけ受診できるようにしてくれました。

 

診察結果は、

新書版のページを見せながら

 薬を飲んで、3ヶ月間寝ていなさい。

というものでした。

これが「新書版の本」でなく、きちんとした「医学書」を見せられていたら、そのとおりにしたと思います。

でも、仕事を休んで、3ヶ月寝ているなんてできません。

仕事が進まなくてイライラしているのですから。

 

応援してくれる人

荘長が、職場とは関係のない人に相談してくれたらしく、

その人から数回、飲みに連れて行ってもらいました。

しかし、薬を飲んでいるせいか、

毎回、午前3時になると、気持ちが悪くなり、吐かなければなりませんでした。

後で知ったのですが、うつ病のときは、応援したり、飲みにつれていってはいけないのだそうです。

禁煙をやめた

その頃、私は、約5年ほど禁煙していたのですが、

うつ病で入院しても、誰も見舞いに来ないよな。

喫煙で病気になり入院した場合は、誰かは見舞いにくるよな。

喫煙して、うつ病が治るなら、喫煙で体を壊したほうがいいよな。

と考え、禁煙をやめました。

 

何とか治ったけど

いつから治ったとうことではありませんが、

気分をかえたことにより、

その後も仕事を続けることができました。

しかし、今でも言いたいことの語彙が出てこないことが、たびたびあります。

うつ病の後遺症ですかね。

しかし、この頃より困難な業務もうつ病になることなく、

遂行してこれたのは、この経験があったからだと思います。

 

 

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